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ディベートの研修を英語と日本語で10年以上やってきたが、ディベートするなら、
日本語より英語の方がいいと思っている。その理由を三つほど述べてみたい。

日本語は曖昧だから

昔 「We,Japanese・・・」と米国人に言った途端、詰問された。
Japaneseとは誰をさすのか、何%の日本人を指すのか、それが確かという根拠はあるのかと。
うーん。返事に詰まった。日本で「われわれ日本人は・・・」といっても、見逃してくれる。
日本語は主語が曖昧。それでも十分通じ合える。が、英語だとそうはいかない。
Weの定義から説明をしなければならない。日本語でディベートをするとディベートという性格上、
英語みたいに主語を明確にすることになる。これがきつく聞こえてしまうのだ。
まるで裁判みたいになる。墨絵のようにぼやかし、察しあい、「分かった!何も言うな!」
「よろしく頼む」このような腹芸が効くところが「日本的灰色文化」の特徴なのにそれができない。
そう…日本語でディベートをすればするほど、検事か弁護士のように「白黒はっきり話法」になってくる。
この「曖昧さを許さない話し方」に快感をもってくるとコワイ。なぜなら、曖昧な日本語は、
ディベートには適さないかも知れないが、日本文化そのもの。川端康成の世界だからだ。

英語は世界共通語だから

これが最大の理由。仮に日本語でいくらディベートが上手になっても、世界では通じない。
舞台が広がらないのだ。ぼくは過去、アフリカやアジアでも仕事をしてきたが、すべて英語で事足りた。
英語でコミュニケーションを取れたおかげで、ディベートの醍醐味である
「違った視点、違った物差し(判断基準)」を互いに紹介することができた。とても刺激的だった。
日本人が日本語を使い、日本の物差しで、意見を述べあっても、落差は少なく、知的刺激は
あまり得られない。日本語でやっている限り、 「井の中の蛙ディベート」になってしまう。

英語だと笑えるから

日本語のディベート同好会や研修に出たことがある。特徴は真面目で笑いが少ないこと。
アカデミックディベートだから仕方がないが、ぼくの好きなディベートの題「ゴキブリの存在は許せるか」
なんていうものはやっていない。かなり「知的」な論題なのにぃー。
オクスフォードとケンブリッジのディベーターが日本で見せてくれたディベート。
「大学は時間の浪費か」。これはおもしろかった。 ディベーターも聴衆もジャッジも大いに笑った。
なんで英語だと笑えて、日本語だと笑えないのか。 それはユーモアに対する価値観の違いだと思う。
ユーモアの語源は体液。ユーモアがないと心も体もかさかさになってしまうと彼らは信じている。
ユーモアは自分を客観的に観察し、自分の愚かさを笑うところからはじまる。
日本人にはそれができない人が多いようだ。特に学校の先生には、自分の愚かさを生徒の前で見せ、
笑い飛ばすぐらいになって欲しい。日本語のディベートは、知識に偏重しすぎる。 前もって勉強し、
根拠は暗記し、ノートに羅列。聴衆を笑わせようなんていう発想はない。余裕がない。
遊びがないのだ。聞いている人を楽しませ、笑わせてくれるディベートでないと、世界に広まらない。

じゃあ どうすればいいか

* 英語を勉強している人は、英国式ディベートをマスターしてほしい。
    英国式ディベートができると、世界が広がる。

* 日本語でディベートをしている人は、中学生の英語を使ってでも英語ディベートを経験してほしい。     何故ディベートが英語なのか、やってみると理解できる。

* 英語でも日本語でも「聴衆を笑わせるディベート」をしてほしい。 笑いは「世界共通語」。
    ユーモアは「体液」
2008年



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