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日本企業に9年、米国企業に20年、米国人TIMとパートナーを組んで企業研修を13年。64歳になった今、自分の来た道を振り返って考えてみると、「ディベートは日本人にむかないのではないか」と思わずにいられない。
夕餉の前にちょっと理由を書いてみます。

1 受身形の日本語
「させていただきます」というと、気持ちが穏やかになる。
「生かしていただいている」と思うと謙虚になる。
「諦観」「含羞」「恬淡」「沈潜」「彷徨」これらの言葉を並べると、青春時代に「愛と認識との出発」「風土」「三太郎の日記」に心を震わせた自分を懐かしく思い出す。
だがこれらはディベートにはない言葉、概念である。
エッセーでも書いたが、呉 善花 さんが、
交詢社午餐会で講演をされたとき、原爆を落とされた日本は米国に対して恨み辛みを持っていると思ったのにまるで、天災にあったように「仕方がない」とおとなしくしている。
そんな日本に最初はあきれ驚き、だが今は「受身形の日本語を使うと穏やかになる」とユーモアをもって日本語の利点を讃えておられた。
証拠を上げ、相手の論理の矛盾を突き、公衆の前で相手を論破する。
このゲームに勝つためには、受身形の日本語は使えない。丁寧語を使えば冗長になる。
でもこれは文化なのだ。
「日本人のアイデンティティは何か」と問われれば、ぼくは躊躇なく「桜」をあげる。
桜のもつ恬淡。無常感。一夜の風に散る潔さ。
受身の日本語と桜には共通した繊細さがある。
だがディベートにはこの美意識は通じない。
かえって邪魔になる。風土に合わないのだ。

2 納豆社会
日本の学校、会社、組織、そのどこにいても、あなたは先輩に「何故ですか」
「何故それをしなければいけないのですか」「その根拠は何ですか」といえるだろうか?
上司にそれは間違っていると思う。理由は3点。
事例は以下の資料に書いてあります。
先輩、上司がディベート好きでルールを知っている経験者ならともかく、普通は「生意気な奴」と思われるのがオチだろう。
いわんや自分の仲人をしてくれた上司などに、ディベートをして論破するような人はいないと思う。
世の中のしがらみがベターっとくっついて、糸を引いている納豆社会に理屈はいらない。
英語なら誰でも「YOU」。対等。
だからディベートが出来る。
日本のように縦社会、先輩後輩関係が好きな人種、肩書きを重んじる場所でディベートをすれば、納豆の糸を切ることになる。
ネバネバのない納豆は味気ないから、納豆の糸を切る奴は先に自分が切られる。

3 質問嫌い
ユダヤ人の母親は学校に行く子供に向かって「学校に行ったら先生に沢山質問しておいで!」
と送り出す。
日本の母親は「みんなと仲良く、先生の言うことをよく聞きなさい」という。
こんなことが、ユダヤ人についての本に書いてあったが、日本人は公の前で質問が出来ない。
訓練されていないのだ。ディベートの先生にこういわれた。
「質問はDevelop(発展)させるためにするのが目的」質問後は質問者も回答者も双方が感謝して、
雰囲気、状況が質問前と比べて格段とよくなっていなければいけないと。
質問嫌い、質問下手の日本人を諌めてくれた。

ここまで書いてきたら、家人の呼び出し...
「ごはんですよー」
「へーイ、いただきまぁーす。おぅ 大好きな納豆...」黙々とかき込む。
「じつは こどもが難しい質問をしてきて...」
「質問は飯が不味くなるから、あとにしてください...」シーンと不穏な空気。

ディベートは日本人にはむかないのだ。

2007年


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